…最近TVなどを見ていると、なにか感動体験をした人のコメントで「○○さんたちから勇気をもらいました」という言葉がよく聞かれるのですが、なぜだかいっつも抵抗を感じるのです。(使っている方々に、じゃなくてあくまでもその表現に。)
なんでだろう。 「勇気が湧いた」とか、「がんばろうというキモチになった」でいいじゃないの、とおもってしまうのです。なんでそんな言い方するの?と。
「勇気をもらいました」、別にパワーをくれた相手を侮辱しているわけでもなんでもないので、表現としては悪くないんですけどね…失礼でもないし…
もしかしたら感動させてくれた相手も「誰かを勇気づけたい!」という動機のもとに行動しているかもしれず、それならそれで勝手に受け取る人もいるだろう、ってことなんですけど。
なんかイヤなんだなーーーーー 聞くたびに脳のどこかがチリッと軽くショートする。(イライラと言い換えてもよい) どうしてなのだろう。自分でもよくわからない。
この表現がもたらす嫌悪感について、なにか分析している人がいるか調べてみたいとおもいます。
むぅーーーーーーーーん (モヤモヤモヤモヤ ∞)
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コメント
コメント一覧 (4件)
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もともとは無かった勇気を頂戴したような感覚なんでしょうかね。
イヤとまではいきませんが、使わない表現ですね。
「○○させていただく」はイヤですけどね。
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> もともとは無かった勇気を
…なるほど。鋭いですね。ここがワタシのひっかかるポイントかもしれません。
勇気を「もらう」とは何事か、という反感なのかも(笑)
勇気は自分で自分のなかから無理してでも育てるものじゃないかなーという気がします。
他人様から「もらった」勇気が、勇気としてなにかの原動力にむすびつくのかな、と甚だ疑問。
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すけどの
>勇気を「もらう」とは何事か、という反感なのかも>説が有力かと。
ダイレクトに考えれば勇気はもらうもんじゃないからおかしいよね。 勇気(の源)をもらいました。なら、意味がとおるかも。 勇気そのものはその人になかでわきおこるものでしょうが、その動機となるもの(源?)は存在しうるわけで。 日本語ってというか、通常使ってることばって、省略が多いよね。 そののりでそのまま訳してとんでもない英語になってしまうを私はよくみてます。 I am orage juice とか。。
私がひっかかる表現、 ”××でよろしかったでしょうか?” ”お声がけする”
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〉そののりでそのまま訳してとんでもない英語に
そうそう、ブログに海外からのアクセスもあるので、翻訳プログラムをくっつけようかとおもったこともあるのですが、ためしに訳を見たら、英語もスペイン語も意味不明だったのでやめました^^;
やはり翻訳はちゃんとわかる人がやらないと……
”お声がけする”はワタシにとっても謎です。